コーヒームーン マンガ

〈西洋芸術×ループもの〉牡丹もちと『コーヒームーン』分断された世界をどう生きるか?

「分断」された世界

『コーヒームーン』を読んでいると、ついつい、「ループの原因は何だろうか」「誰か死ぬのか?」「ピエタの能力って結局なに?」といったような展開に目が行きがちになる気がします。

もちろんそれも『コーヒームーン』を構成する大きな要素だと思われますが、それらよりも、この作品ではかなりはっきりと、「分断」が描かれていると思うのです。

・「変わらぬ今日」に閉じ込められた人物と「新しい今日」を生きる人物

・はっきりと分かれた「貧困層」と「富裕層」 

・激しい武力衝突を起こしている「現政権」と「反政府組織」

・「旧言語」と「新共用語」

バットマンのゴッサムシティ的な世界観すら感じます。

というか、市長が狙われる、その親族が主要人物、激しい格差が存在する、といった点は、ゴッサムシティそのものですね。

1巻の巻末に収録されている、一部黒塗りとなっている新聞は、ピエタの生きる世界の縮図となってるのではないでしょうか。

「新聞は発行されているが、検閲は逃れられない」というような世界。

とくに、「旧言語と新共用語」の設定はジョージ・オーウェルの『1984年』の「ニュースピーク」を彷彿とさせるような設定です。

第7話において、ピエタと駄苗、キアロの三人は図書館へ行きます。そこで「旧言語」で書かれた新聞を読みますが、

「目がチカチカするね…」とコメディタッチな台詞が入ります。

一見ゆるいシーンに思えますが、「新共用語」の政策が実際的な効果を持っていることを端的に表すシーンでもあります。

そう考えると、これよりも前のシーン=ピエタが「本の刑務所みたいだ…」と心の中でつぶやくシーンも、なかなか意味深な台詞に聞こえてきませんか?

そして、新聞の左下に小さく載っている「ラップ面接受付中」の欄。そこには”言葉は力だ”とあります。

この言葉、案外この後の展開に大きく関わってきてもおかしくない気がしました。

「ループもの」という「円環」を想起させるイメージのなかに、はっきりとこうした「分断」が描かれている。

これらの「分断」は、私たちの生きる世界に古来から存在してきた「分断」だと思います。

格差は広がるばかりであり、言語の壁はいつも、コミュニケーションを阻む一因として存在しています。政治が落ち着いていた時代など、ありません。

「ループ」という非現実感を覆い隠すほどの「分断」。ある種の「現実感」を感じさせる要素が同居しているマンガだと思いました。


サブタイトルについて

『コーヒームーン』の各話を飾るサブタイトルは、かなり漠然としたことばが多いように感じます。

それもそのはず。

おそらく『コーヒームーン』のサブタイトルはすべて繋がっており、最終的には、誰かの一人称視点から語った文章になると思われるからです。

単行本2巻までに収録された第9話までのサブタイトルを抜き出してみると、

「私は」「今日が」「大好きです」「でも」「友達と」「一緒に迎える」「明日が」「もっと」「楽しみに」

となります。

繋がっているとしたら、これはピエタの心情を表したものなのか、それとも別の人物のものか

このサブタイトルは一見「分断」されていますが、たしかに「繋がって」います。

このサブタイトルは、ピエタがこの「分断された世界」をどう生きていくかの、ピエタなりの答えを表しているものではないでしょうか。

単行本3巻で、ピエタのお話は一段落するそうなので、また新しい展開が待っているかもしれませんね。

今後も楽しみなマンガです。

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