この記事には『エレファント・マン』に関するネタバレが含まれています。
『エレファント・マン』は、日本では1981年に公開されたデヴィッド・リンチ監督の映画。
少し前に4K修復版が劇場公開されたようで、時代を超えて愛される作品であることがわかります。
著しく変わった外観を持つ「エレファント・マン」こと「ジョン・メリック」の半生を、事実に基づきながら追う映画として知られていますが、この映画で描かれていることは、「ジョン・メリックよりも救われない存在がいる」ということではないでしょうか。
映画の後半、『僕は動物じゃない 僕は人間なんだ』という「叫び」がたしかに感動的な映画ですが、この「叫び」の声すらあげられない存在がいることも、この映画は描いています。
本当の「最底辺」にいる弱者は誰か
舞台となっている19世紀末のロンドンは、今と変わらず、社会的貧困・格差が蔓延しています。貧困と格差がなくなった時代、なんてものがそもそも存在しないのでしょうけれども。
今となっては一発で大炎上確定の「見世物小屋」にいたメリックも、この貧困の煽りを直に受けています。
メリックがかろうじて暮らしていた「家」とは言えないような家には、他にも同居人がいました。「見世物小屋」でメリックを見せ物にして金を稼いでいる「バイツ」と、そのバイツが連れている少年「子ども」です。
この映画で描かれる、最も悲惨で救われない「最底辺」は、この「子ども」ではないでしょうか。
子どもの境遇
作中で、この子どもについての説明はありません。バイツが父親なのかもしれませんし、そうではない可能性もあります。母親はいないらしく、いつもバイツの傍らでバイツの顔色をうかがっています。
この子どもはいつも、大人の顔色をうかがって、大人を見上げています。痛ましいほどに。
この映画の序盤で、トリーヴズがメリックに興味を示し、彼の家へ行き、そこでメリックの姿の一部が明かされるシーンがあります。ここでは子どもは、メリックに対し、威圧的な言葉遣いで接しています。
これは、バイツの言葉を復唱しているためです。この少年が自発的に発した言葉ではないのは明らかです。この少年の処世術として、「バイツに逆らうことなく過ごす」という習慣が身についているためでしょう。
のちのシーンでは、バイツがメリックに危害を加えようとすると、必死に叫び、止めようとします。バイツに殴られ、危険な状態になっていたメリックを救おうとして、トリーヴズに助けを求めたのもこの少年です。
このシーンからも読み取れるように、少年は「貧困のなかでもとくに自由のない、威圧的な大人の影響下」にいることがわかります。
大切なのは、ここの場面では、「少年」と「メリック」は外観を除くと、ほぼ同じ境遇にいるということです。「普通の人のように眠る」ことができないのは、この少年も同じです。
紆余曲折あるものの、メリックのこの後の人生では、彼にとって幸せな出来事がたくさん起こります。この少年はどうでしょう。この子どもに救いの手を差し伸べてくれる人物は現われるのでしょうか。
「少年」と「メリック」の対比
この映画では「少年」と「メリック」が、対比の関係で描かれているのではないでしょうか。
メリックはトリーヴズと出会ってからは、一段ずつ「階段」を登るように、貧困から抜け出していき、自分のアイデンティティを確立していきます。その健気な姿勢が観客の感動を誘うのはたしかなのですが、私たちが本当に直視しなければいけないのは、その「階段」すら与えられないままに貧困にあえいでいる「子ども」ではないでしょうか。そしてその状況を作り出している、壊れた社会的状況なのではないでしょうか。
メリックは最終的に自分の「家」を手に入れます。少年には、安心して眠ることのできる「家」はありません。舞台女優からプレゼントをもらうこともなく、医者の家に招かれ、紅茶を振る舞われることもなく、化粧箱をプレゼントされることもなく、趣味に精を出す暇などなく、一人で生計を立てることもできません。ましてや、演劇を鑑賞することなどなく、母親の姿を知らない可能性すらあります。
この映画ではとことん残酷的に、少年とメリックを対比の関係に置いていると思います。
それを決定的に描いているシーンがあります。メリックがバイツに連れ戻されたあと、見世物小屋のみんなでメリックを脱出させてあげようとするシーンです。
メリックは見世物小屋のみんなに付き添われ、ふらふらとよろめきながらも、解放に向かって歩いていきます。少年はその流れに沿うことなく、その背中を眺めています。少年が視線を移すと、そこにはバイツが寝ているであろう小屋が。
メリックを脱出させたあとも、この少年の人生は続くのです。映画では描かれていませんが、メリックが出て行ったことを知ったバイツが、真っ先に矛先を向ける相手は誰でしょうか?この少年以外にいません。
脱出を手伝ってくれた仲間のひとりが言います、「俺達のような人間に 運は必要だ」。少年にはその運すら無かったのです。
この映画は、少年にとっては最悪のバッドエンドを迎える映画でもあるのです。
メリックは最期に綺麗なベッドで仰向けになって、上を向いて終わります。少年はメリックを送りだしたあと、立ち尽くし、下を向きます。これ以上ない、残酷な対比と言えるでしょう。
「格差」を描く映画としての現代性
町山智浩氏などの諸子が指摘しているように、近年のアカデミー賞や、話題になる映画には「格差」「貧困」というテーマが含まれていることが多いです。
『パラサイト 半地下の家族』『ジョーカー』『万引き家族』『わたしは、ダニエル・ブレイク』『プラットフォーム』などが挙げられるでしょう。
それらのなかに、この『エレファント・マン』が入っていても、なんら遜色ないでしょう。マイノリティを受け入れるという風潮がやっと世界的に起こってきた近年においては、むしろこの映画はどんな映画よりも現代的とすら言えるかもしれません。
これからも受け継がれていくべき名作です。