『さがす』を観てきました。
すばらしい映画でした。感想と考察を少々。
一回、劇場で観ただけなので、記憶違いとかありましたらごめんなさい。
「おまけの夜」さんの解説、おすすめ
いきなり引用で恐縮ですが、「おまけの夜」、柿沼さんの『さがす』解説がわかりやすかったです。
『ドライブ・マイ・カー』の解説もされてます。そちらもわかりやすかったです。
以下、柿沼さんの解説を元に、気付いた点、気になった演出を補完的にしゃべります。
楓ちゃん疾走!
いきなり街中を慌ただしく駆け抜ける楓ちゃん。
カメラは基本的にフォローで追いかけて、カーブミラーや監視カメラの映像も混ぜながら、一直線に淀みなく、お父さんの元へと辿り着きます。
このシーンはこの映画における楓ちゃんの基本的なスタンス、「お父さんを一直線にさがす」スタンスを反映したシーンだと思います。
冒頭に「万引きをしたらしいお父さんを迎えに行く娘」というシーンを見せるだけで、我々観客には、特にそれ以上の説明がなくとも、「ダメ親父」と「しっかりした娘」という登場人物の性質が伝わってきます。無駄のない演出です。
このとき、足りないお金を楓ちゃんが財布から出し、机に置くと、「そういう問題じゃないですよ」といったセリフが店の従業員から発せられます。
このセリフ、この映画の終盤の展開に繋がっているような気がします。詳細は後述。
お父さん失踪!
「しっそう」は「しっそう」でも、お父さんの方は「失踪」です。
工事現場へ行くと、指名手配犯とお父さんが入れ替わっていた…。
「楓ちゃんは序盤で「お父さんの本質」を見つけてしまっていた」という柿沼さんの指摘、すばらしいですね。
あらゆる境界線
卓球台のネットが、「あっち側」と「こっち側」を分ける境界線になっている、という指摘も、その通りですね。
思い返すと、柿沼さんが指摘しているシーン以外にも、いろいろ境界線は存在していました。
例えば、AVおじいの家でもそうでした。
襖を開けると、AVコレクションがずらりと並んでいました。それを見ても、名無しは大きな反応は見せず、「どうすかね…」と興味なさげ。
しかし、SMプレイの映像、というか、白いソックスに興奮を覚えた名無し。このとき、(たぶん)開けられた襖よりも奥の位置に進んでいた。
つまり、「普通の部屋」と「AVコレクション部屋」を別つ境界線を、このとき名無しは越えていたのだと思います。あるフェチズムに目覚める瞬間を構図で示していたと思われます。
名無しがよく使っている電車の情報を得た楓ちゃんが、電車から降りてきた名無しと思われる人物を呼び止めるシーンでも、境界線がありました。それは「踏み切り」です。
踏み切り=境界線を越えてから、楓ちゃんは男を引き留めますが、それは名無しではありませんでした。直後、学校の先生とシスターが現われます。
この二人は、境界線を越えて「あっち側」の人物へと干渉しようとする楓ちゃんを、押し留めようと、押し返そうとしているのでしょう。
楓ちゃんが学校で、焼きそばパンを食べていたシーンでもそうでした。教室の外で食べる楓ちゃんに話しかける花山くんは、はじめは教室の中にいます。会話が進むにつれ、花山くんは二人を隔てる壁を越えて、楓ちゃんの側に来ます。そして、不機嫌な楓ちゃんが教室に戻るときも、花山くんはその後を付いていきます。
この一連のシーンから、花山くんは、楓ちゃんが「あっち側」と「こっち側」のどちら側に行こうとも、付いてきてくれるような存在である、ということが示されているのではないでしょうか。
社会的な境界線
構図やストーリーで「境界線」を強調する映画のひとつに、ポン・ジュノ監督の『パラサイト 半地下の家族』が挙げられます。ポンジュノ作品には「格差」を描いたものが多い、というのも特徴ですね。『スノーピアサー』や『ほえる犬は噛まない』などですね。
そういえば『ポン・ジュノ アーリーワークス』に収録されている一篇『支離滅裂』のワンシーンに、路地裏でチェイスするシーンがあり、楓ちゃんと名無しの追いかけっこを観ていたときに、そのシーンを思い出しました。もしかしたら引用しているのかもしれません。
そんなポンジュノ監督のもとで助監督をしていた片山監督ですから、少なからず影響はあるでしょう。
工事現場で楓ちゃんを助けてくれた、外国人労働者の方がいましたね。後のシーンに出てくるホテルの清掃員も、おそらく外国人労働者だったのではないかと思います(違ってたらごめん)。この映画に出てくる職業には、教職・警察官といった人たちもいました。ここには「正規雇用」と「非正規雇用」の境界線も描かれているのではないでしょうか。
工事現場で出会ったとき、「日本人とはしゃべらない」と楓ちゃんが言われてしまうところも、ある種、境界線が引かれているとも読めます。
先生の家に招かれた楓ちゃん。高層マンションに、親子四人で暮らす姿は、後の、楓ちゃんがひとりで家に帰り、毛布にくるまって眠るシーンと、痛ましいほどの対比になっています。高層建築(≒海抜の高い建物)と平屋(≒ボロ屋)の対比も、非常にポンジュノ的です。黒澤明監督『天国と地獄』とかもね。
「善悪」の境界線が描かれていることはもちろんですが、この映画にはもうひとつ大きな軸として「貧富」の境界線が描かれているのだと思います。
越えられない境界線
結局、「あっち側」へと行ってしまったお父さんですが、手にしようとした300万円は、ほとんどが白紙でした。
「善悪」の境界線は越えてしまったお父さんですが、「貧富」の境界線は越えることが出来なかったのです。
個人が「善悪」の境界線を越えようが越えまいが、「貧富」の境界線は越えられないのでしょう。
この映画の序盤、万引きのシーンはまさに「お金が足りない」というシーンです。お母さんの病気の治療・リハビリに必要な医療費も、原田一家には大きな負担となっていたでしょう。
私たちは、「お父さんは「あっち側」へと自ら行った」と断定できるでしょうか。
社会的・金銭的な要因で、お父さんは「あっち側」に行かざるを得なかった、という側面があるのではないでしょうか。
ほとんどが白紙だったというこのオチには、「貧富」=「格差」は、個人では変えようのない、どうしようもないものである、というメッセージを読み取ることができると思います。
金で善悪は変えられないし、善悪の境界線を越えたからって、お金が手に入るわけでもない。ここには個人の範囲を超えた、社会的・倫理的な問題があります。
万引きをした後、足りない分のお金を払っても、善悪は変えられません。しかし、お金が足りなかった原因を、「個人」にすべて還元することなどできるのでしょうか。それを「できる」と簡単に断定してしまうと、それは複雑な問題を簡略化した「自己責任」論に行き着くでしょう。
では、お父さんはどうしたらよかったのでしょう。わかりません。
この映画は卓球台のネットを映して終わります。境界線のどちら側でもない場所です。
私たちはこの境界線上で、その答えをさがし続けるしかないのでしょう。